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審美歯科 名古屋のご提案

上陸すると、一行はまず社務所に荷物を置き、入江のほとりで皆素っ裸になって浅瀬に入り、身を清める。
水はぴりっと冷たい。 もちろん、女性は一人もいない。

完全な女人禁制だ。 今どき、こんなに戒律のきびしいところは、世界でも稀ではないだろうか。
再び服を着て山に上り、嗣に詣でる。 大した社ではないが、「海の正倉院」と呼ばれてきたそうだ。
それには、わけがある。 玄界灘から対馬海峡、東シナ海にかけては波が荒く、大昔から難破する船が続出した記録がある。
そのため、遣唐使をはじめ、古代中国への使節は往きにまずここへ寄って航海の安全を祈り、帰りも再び寄港して無事を感謝し、その都度宝物を捧げたのだという。 その捧げ物のおかげでこの島は、あるときまでは、宝の山だったのだろう。
しかしその後、貴重な宝物の数々は、海賊どもに盗掘されてしまい、今は何も残っていない。 一部は奈良の正倉院に移されたというが、微々たるものだったようだ。
世界の多くの遺跡と同じように荒らされてしまったことが、何とも惜しまれる。 なお、ここの社務所には、日露戦争のときの記録があったそうだ。
一九O五年(明治三十八年)五月二十七日、ロシア海軍の強力なパルチック艦隊がすぐ西側の海を通過するのを、山の上から見た神宮が書きとめておいたのだという。 この艦隊はその後、日本海で待ち受けた日本側の艦隊にこっぴどく叩かれ、それがもとでロシアは負けたということを、私たちは子供のころから暗記するほど教えこまれた覚えがある。
百年余り前のことだ。 この日を「海軍記念日」として国中が祝ってきたのも、戦前派にとっては、記憶に新しい。
私たちはその日、島のごく一部を回っただけで(私は一人、エメラルド、グリーンの底が見える海で泳いだが)再び船に乗り、大島でぽんぽん蒸気に乗り換えて福岡へもどった。 沖ノ島には、厳しい定めがある。

何かを捨てることはもちろん、一木一草といえども取ってはならないのだ。 アルプスをアタックする登山者の心得と同じ、と思えばいいだろう。
宗像大社の社務所によると、今でも毎年五月二十七日に「沖津宮現地大会」が行われているので、この珍しい島を訪れることができる。 但し、三月下旬に申込みをして、先着二百人で締切り。
残念ながら、今もって女性はだめだ。 また、七十歳以上の男性も、現地に医療施設がないため、万一のことを考えて遠慮してもらっているのだという。
参加者は、何般かの大型漁船に分乗して沖ノ島まで往復するが、現在はスピードが速くなって、片道一時間半ぐらいしかかからないそうだ。 (余談をひとつ。
オキノシマで思い出したのが、隠岐島である。 これは、島根県にあって、日本海に浮かぶかなり大きな島二つから成っている。
定期船もあれば飛行機の便もあるので、行きやすい。 ただ、定期船の会社は赤字つづきなので、県や町に引き取ってもらうそうだけれど。
同じ日本海にある佐渡島にくらべると、ずっと小さいし、名所旧跡も多くはない。 しかし、鎌倉時代末期にここへ流された後醍醐帝の遺跡があり、新鮮な魚料理を地酒の焼酎で味わうのも一興だろう。
真っ青な海の美しさは、沖ノ島とどちらかというところだ。 もちろん、隠岐島は女人大歓迎である)。

時代は、戦後まもなくの一九四〇年代末期にさかのぼる。 私が大学の寮にいたときのことで、まだ戦後の復興がその緒についたばかりだった。
食べる物、着る物、住む家、すべてが欠乏していたころの話である。 大学一年の夏休みが近づいたころ、寮生仲間のM君が、「関西を見たいのなら、わが家へ泊めて案内してやるぞ」と誘ってくれた。
貧之人の私は、狭いわが家に客を泊めることなど想像もつかなかったので、はじめは冗談かと思った。 しかし、相手が本気なのを見て、「それなら頼むよ」と旅費を稼ぐアルバイトに精を出した。
一九四九年のことである。 いよいよ夏休みになって、東京駅から東海道線に乗った。
冷房のない学割の三等車は暑くてかなわない。 ときどき窓を開けて涼しい風を入れるのだが、当時は石炭を焚く蒸気機関車だったから、煤煙が汗だらけの顔にしみついて黒くなる。
でも、関西への旅は小学校六年の修学旅行以来なので、興味のほうが先に立ち、そんなことは気にならない。 (修学旅行に行ったのは、戦争さなかの一九四二年〈昭和十七年〉夏のことだった。

日本の旗色が悪くなり、米軍の艦砲射撃があるかもしれないというので、関西までの夜行列車は往復とも灯火管制〈車内灯を消したまま〉厳守。 それに、米は配給でしか買えなかったため、先生も生徒も米持参という有り様。
三泊四日で伊勢、奈良、京都を回って帰ったが、旅館で寝たのは奈良だけ。 あとの二泊は寝苦しい板張りの列車のなかという強行軍の連続だった。
京都駅で夜行に乗り込んだとき、隣のホームに止まっている列車に英国兵らしい捕虜がいるのが見え、生徒が大騒ぎしたことだけをよく覚えている)。 それにくらべて今回は、何と優雅な旅なのだろう。
食べ物が乏しいのは戦争中と変わらないが、敵の爆撃にやられる心配もなく、ゆっくりと沿線の景色を楽しむことができる。 期待に胸がふくらんでくる。
特急で十時間かかった。 今なら新幹線で一時間弱でやっと神戸の三宮に着いたら、M君が出迎えてくれた。
阪急に乗り換えて六甲口で降り、坂を上がったところに彼の家はある。 いや、すごい豪邸だ。
これなら、客の二人や三人は泊めることができるだろう。 しかも、お母さんとお姉さんから、まるで若殿様のように迎えられて、面食らった。
そして、翌日からは彼の案内で、名所めぐりが始まる。 まず、日本一の名城と聞いてきた姫路城へ向かう。

途中、電車のなかから見た須磨の白砂青松には感嘆の声をあげた。 (今、あの白砂青松はない。
経済の高度成長による開発で永久に失われ、自然の美しさは過去の話になってしまった)。 さて、姫路に着いた二人は、小走りに目指す城への道を急いだ。
(今のように高架を走る新幹線から見える、という状態ではなかった)町並みが切れたところで、M君が前方を指さし、「あれだ」と叫んだ。 なんと美しく均整のとれた姿なのだろう。
これまで本格的な城というものを見たことがなかった私は一瞬、おとぎの国へ迷い込んだような錯覚にとらわれた。 「なるほど、白鷺城か」と怯いたまま、私はしばらく声が出なかった。
戦国時代には、支配者である武将の象徴であり、外敵を寄せつけない要害として近隣に鳴り響いていたのだろう。 だが現在では、偉大な芸術品といったほうがぴったりくる。
大手門から二の丸、三の丸と上がって、たどり着いた天守閣、これが実にすばらしい。 天守閣の最上階から周囲を見下ろしたあと、帰りは揚手の門から外へ出たが、ここから見上げる姿もまた、「白鷺城」のイメージを強くした。
(この姫路城訪問がきっかけとなって、私は「城めぐりしにのめり込むのである)。 その翌日訪ねた大阪市内では、何をおいても大阪城へとんで行った。
戦争中の中学生のころから、私は歴史といえば戦国時代の群雄割拠に夢中になり、天下分け目となった「関ヶ原の合戦」と「大阪夏の陣」に強い興味を持っていた。 大阪城の見学にはとくに期待していたのである。

だが、それは必ずしも満たされたとはいえなかった。 今見ても迫力がある。
昔はさぞ威容を誇っていたことだろう、と思う。

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